日記帳
音楽、本、映画、ときどき商売。
2012年2月4日 出会い
私が、呉服屋になって38年、これまでで一番、劇的な出会いは、8年前、抓掻本綴の服部秀司さんと、京絞り染の寺田豊さんが、「丸太や」に、「飛び込み」で来られた時でした。その時、「丸太や」の歴史が、大きく動いたのです。
その時、私は、店の外に出ていて、店に戻ると、男性が二人、店内にいらっしゃいました。家内が、「こちらのお二人が、お話をさせていただきたい、と先程、お越になられたのです」、と説明してくれたので、「どうぞ、お掛け下さい」、と椅子に腰掛けていただきました。私は、普段、ほとんど、エラソウにも、「飛び込み」で来られた方は、門前払いなのですが、その時、お二人の姿勢に、何かを直感して、お話を聞かせていただこうと思ったのです。
その時、主に、服部秀司さんがお話されたのですが、綴帯、絞り染、の制作者として、現在の呉服業界、とりわけ、流通の在り方に疑問を感じておられること、これから、志を同じく出来る呉服屋と、組んで行きたい、と考えておられることを述べられました。私も、呉服屋として、同じ考えに立ち至ったことをお伝えしました。
その時、私は、店の外に出ていて、店に戻ると、男性が二人、店内にいらっしゃいました。家内が、「こちらのお二人が、お話をさせていただきたい、と先程、お越になられたのです」、と説明してくれたので、「どうぞ、お掛け下さい」、と椅子に腰掛けていただきました。私は、普段、ほとんど、エラソウにも、「飛び込み」で来られた方は、門前払いなのですが、その時、お二人の姿勢に、何かを直感して、お話を聞かせていただこうと思ったのです。
その時、主に、服部秀司さんがお話されたのですが、綴帯、絞り染、の制作者として、現在の呉服業界、とりわけ、流通の在り方に疑問を感じておられること、これから、志を同じく出来る呉服屋と、組んで行きたい、と考えておられることを述べられました。私も、呉服屋として、同じ考えに立ち至ったことをお伝えしました。
2012年2月3日 きはる
「飛び込み」、と言えば、「飛び込み」でしょうか。昨年のゴールデンウィークの頃のことです。弊店入り口に陳列している本藍染のTシャツを、熱心に見ておられる若い女性が眼に留まりました。近づいて、商品説明をすると、「私は、京都の呉服問屋の者なんですけれど、お話をさせていただいても良いですか」、とおっしゃるのです。中に入っていただいて、お話を聞かせて頂くと、弊店がありふれた呉服屋らしくない、呉服屋臭くなくて興味を持った、とおっしゃるのです。
その女性は、京都の、「やまと株式会社」という呉服問屋の社員で、村田理絵さんとおっしゃる方でした。プライベートな休日に、神戸に遊びに来られていて、弊店の商品が目に留まり、思わず、話を聞かせて欲しい、と思われたのだそうです。私は、その熱意に心動かされて、「丸太や」の商売の取り組み、考え方について、お話させていただきました。とりわけ、呉服業界の沈滞の原因が、女性の能力が活用されていないことにある、という持論を熱心に語りました。
村田理絵さんの活躍を頼もしく思った私は、彼女が帰られた後、早速、インターネットで、「やまと株式会社」のホームページを見ました。色々、取扱商品が紹介されている中で、私は、「きはる」と名付けられた、ちりめん組織の木綿の着物に興味を持ちました。すると、後日、村田理絵さんから、お電話を頂戴し、再度、弊店を訪ねたいとのことでした。私が、「きはる」に興味を持ったことを伝えると、「きはる」は、村田理絵さんがチーフで取り組んでいる商材だそうで、その説明に来られるとのことでした。
村田理絵さんが持参された、「きはる」は、思っていた以上に素敵で、早速、翌6月に、弊店で販売させていただくことになったのですが、期待通りの好結果でした。木綿の着物なので、5月から10月頃までの間の着物なので、秋以降は販売できませんが、この春から、お客様に、「丸太や」の一押し商品として、お薦めいたします。
その女性は、京都の、「やまと株式会社」という呉服問屋の社員で、村田理絵さんとおっしゃる方でした。プライベートな休日に、神戸に遊びに来られていて、弊店の商品が目に留まり、思わず、話を聞かせて欲しい、と思われたのだそうです。私は、その熱意に心動かされて、「丸太や」の商売の取り組み、考え方について、お話させていただきました。とりわけ、呉服業界の沈滞の原因が、女性の能力が活用されていないことにある、という持論を熱心に語りました。
村田理絵さんの活躍を頼もしく思った私は、彼女が帰られた後、早速、インターネットで、「やまと株式会社」のホームページを見ました。色々、取扱商品が紹介されている中で、私は、「きはる」と名付けられた、ちりめん組織の木綿の着物に興味を持ちました。すると、後日、村田理絵さんから、お電話を頂戴し、再度、弊店を訪ねたいとのことでした。私が、「きはる」に興味を持ったことを伝えると、「きはる」は、村田理絵さんがチーフで取り組んでいる商材だそうで、その説明に来られるとのことでした。
村田理絵さんが持参された、「きはる」は、思っていた以上に素敵で、早速、翌6月に、弊店で販売させていただくことになったのですが、期待通りの好結果でした。木綿の着物なので、5月から10月頃までの間の着物なので、秋以降は販売できませんが、この春から、お客様に、「丸太や」の一押し商品として、お薦めいたします。
2012年2月2日 悉皆屋
「丸太や」の主たる仕事は、呉服の販売ですが、着物や帯の修理、再生も大事な仕事です。通常、着物や帯の手入れは、洗い張り屋さんという、きもののクリーニング専門の業者にお世話になるのですが、派手になった着物を地味に染め替えるとか、生地が裂けたのを補正するとか、そういう仕事を専門にする業者は悉皆屋さんです。「丸太や」は、京都の「山信商店」という悉皆屋さんにお世話になっているのですが、「山信商店」の山脇信一郎さんは、もう五十数年来のお付き合いです。
「山信商店」さんは、私が、「丸太や」に入社した時、すでに出入りの業者さんでしたが、ある時、山脇信一郎さんに、「山信さんにお世話になるようになったのは、どういうご縁だったのですか」、とお尋ねすると、「先代のお父様が、まだ、お店にいらっしゃった頃に、飛び込みで、お伺いしたのです。なかなか、仕事を頂けなかったのですが、何回か、顔を出させていただいていたら、一遍、やってみてくれるか、とお仕事を頂戴して、それで、信用していただけてから、ずっと、お付き合いさせていただいています」、と聞かせてくださったのです。
父は、52年前に亡くなりましたから、山脇信一郎さんが、「丸太や」に「飛び込み」で営業されたのは、五十数年前に遡るわけですが、亡き父は、「商売については、厳しい方でした」、と山脇信一郎さんが語ってくださるような人柄だったそうですので、「飛び込み」で営業し、信用を得ることは並大抵ではなかったでしょう。しかし、勇気を持って、信念を抱いて、あえて、「飛び込み」で、「丸太や」にご縁を繋げてくださったお蔭で、今日まで、「丸太や」は、安心して、お客様から、加工品をお預かりし、修理、再生して、お納め出来たからこそ、お客様から、信用を頂戴できたのです。
「山信商店」さんは、私が、「丸太や」に入社した時、すでに出入りの業者さんでしたが、ある時、山脇信一郎さんに、「山信さんにお世話になるようになったのは、どういうご縁だったのですか」、とお尋ねすると、「先代のお父様が、まだ、お店にいらっしゃった頃に、飛び込みで、お伺いしたのです。なかなか、仕事を頂けなかったのですが、何回か、顔を出させていただいていたら、一遍、やってみてくれるか、とお仕事を頂戴して、それで、信用していただけてから、ずっと、お付き合いさせていただいています」、と聞かせてくださったのです。
父は、52年前に亡くなりましたから、山脇信一郎さんが、「丸太や」に「飛び込み」で営業されたのは、五十数年前に遡るわけですが、亡き父は、「商売については、厳しい方でした」、と山脇信一郎さんが語ってくださるような人柄だったそうですので、「飛び込み」で営業し、信用を得ることは並大抵ではなかったでしょう。しかし、勇気を持って、信念を抱いて、あえて、「飛び込み」で、「丸太や」にご縁を繋げてくださったお蔭で、今日まで、「丸太や」は、安心して、お客様から、加工品をお預かりし、修理、再生して、お納め出来たからこそ、お客様から、信用を頂戴できたのです。
2012年2月1日 ポミワンネ
震災の前年、1994年秋、「水牛のブローチを作っているのですが、お店で置いて頂けませんか」、と、「飛び込み」で男性の方が店の中に入って来られました。「水牛のブローチ」という言葉が聞き取れなくて、「杉の・・・」と聞こえて、一体、何かしら、と、「まー、どうぞ」と店の奥に入っていただいて、お持ちになれたものを見せていただくと、水牛の角を、バラや、猫や、に彫刻したブローチでした。
当時、丁度、「丸太や」は、「丸太やオリジナルコレクションコンサート」という、音楽をモチーフにした着物や帯を発表し、もう少し、普段に洋装でも楽しめるものを創って欲しい、というご要望を頂いていたので、水牛のブローチで、バイオリンやピアノをデザインして創っていただくのもどうかな、と思いついて、お持ちになられたブローチを店内で販売させていただくことになりました。
「飛び込み」で来られたのは、上田年鎬さんで、本来、鼈甲や象牙の細工師なのですが、鼈甲や象牙の入手が困難になり、水牛の角を加工されるようになられたそうです。奥様の林玖瞠さんは、漆芸家で、漆塗りの器などを制作されておられて、ご夫婦で、「ポミワンネ」という工房をなさっておられて、「ポミワンネ」では、上田年鎬さんが彫刻された水牛の角を台に、林玖瞠さんが漆塗りで絵を描かれる作品を創っておられます。
お二人が、どんな作品を創っておられるのか、是非拝見させていただきたくて、その年の暮れに、弊店2階の、「ギャラリー響」で、「工房ポミワンネ」の個展を開催していただきました。おご夫婦の息の合った作品づくりに魅せられて、「丸太やオリジナルコレクションコンサート」の新製品として、ブローチやイヤリングを制作していただくことになったのですが、年が明けて、直後の1月17日、神戸を大震災が襲おうとは、その時、夢想だにしていませんでした。
震災後、「ポミワンネ」に、バッハの「無伴奏チェロ組曲」の自筆譜をお渡しして、「丸太やオリジナルコレクションコンサート」のブローチやイヤリングを制作していただきましたが、バッハの手書きの楽譜を、林玖瞠さんが見事に書き写されて、素敵な作品が出来上がりました。それから、ストラップやペンダントも増えて、人気の定番商品になりました。
当時、丁度、「丸太や」は、「丸太やオリジナルコレクションコンサート」という、音楽をモチーフにした着物や帯を発表し、もう少し、普段に洋装でも楽しめるものを創って欲しい、というご要望を頂いていたので、水牛のブローチで、バイオリンやピアノをデザインして創っていただくのもどうかな、と思いついて、お持ちになられたブローチを店内で販売させていただくことになりました。
「飛び込み」で来られたのは、上田年鎬さんで、本来、鼈甲や象牙の細工師なのですが、鼈甲や象牙の入手が困難になり、水牛の角を加工されるようになられたそうです。奥様の林玖瞠さんは、漆芸家で、漆塗りの器などを制作されておられて、ご夫婦で、「ポミワンネ」という工房をなさっておられて、「ポミワンネ」では、上田年鎬さんが彫刻された水牛の角を台に、林玖瞠さんが漆塗りで絵を描かれる作品を創っておられます。
お二人が、どんな作品を創っておられるのか、是非拝見させていただきたくて、その年の暮れに、弊店2階の、「ギャラリー響」で、「工房ポミワンネ」の個展を開催していただきました。おご夫婦の息の合った作品づくりに魅せられて、「丸太やオリジナルコレクションコンサート」の新製品として、ブローチやイヤリングを制作していただくことになったのですが、年が明けて、直後の1月17日、神戸を大震災が襲おうとは、その時、夢想だにしていませんでした。
震災後、「ポミワンネ」に、バッハの「無伴奏チェロ組曲」の自筆譜をお渡しして、「丸太やオリジナルコレクションコンサート」のブローチやイヤリングを制作していただきましたが、バッハの手書きの楽譜を、林玖瞠さんが見事に書き写されて、素敵な作品が出来上がりました。それから、ストラップやペンダントも増えて、人気の定番商品になりました。
2012年1月31日 飛び込み
「飛び込み」、と言っても、水泳の話ではありません。営業の話です。現在、「丸太や」は、店舗販売のみですが、私が、「丸太や」に入社した頃は、私を含めて、5人の社員が、毎日、訪問販売に出ていました。しかし、次第に、訪問販売が難しくなり、折角、一等場所に店舗を構えているのだから、店舗を最大限、活用した商売に転換しようと、店舗販売に営業の重点を移していきましたが、阪神淡路大震災後、交通事情が悪くなって、それを契機に、訪問販売は止めました。
震災以前は、訪問販売を続けていましたが、訪問販売の切っ掛けは、店舗でお買い物をしていただいたお客様、とか、ご紹介を頂だいたお客様、とか、訪問する以前に、ご縁のある方ばかりで、所謂、「飛び込み」と言う、全くご縁の無いお宅に、訪問する、という経験は、私自身は有りません。呉服屋では、「飛び込み」販売は、珍しくはありませんが、良くも悪くも、私は、やったことがありません。
しかし、こういう場所に店舗を構えていると、「飛び込み」で、営業に来られる方は、時々、いらっしゃいます。私は、決して、愛想が良くはないので、相手に対して、往々、失礼な、邪険な態度をとったりしますが、時々、じっくり話を聞かせて頂こう、と直感することがあって、思いがけない、出会いを頂くことが、過去に、何度か、ありました。
震災以前は、訪問販売を続けていましたが、訪問販売の切っ掛けは、店舗でお買い物をしていただいたお客様、とか、ご紹介を頂だいたお客様、とか、訪問する以前に、ご縁のある方ばかりで、所謂、「飛び込み」と言う、全くご縁の無いお宅に、訪問する、という経験は、私自身は有りません。呉服屋では、「飛び込み」販売は、珍しくはありませんが、良くも悪くも、私は、やったことがありません。
しかし、こういう場所に店舗を構えていると、「飛び込み」で、営業に来られる方は、時々、いらっしゃいます。私は、決して、愛想が良くはないので、相手に対して、往々、失礼な、邪険な態度をとったりしますが、時々、じっくり話を聞かせて頂こう、と直感することがあって、思いがけない、出会いを頂くことが、過去に、何度か、ありました。
2012年1月30日 女性力
平清盛が、日本の歴史上、最初に、武士政権を樹立して以来、平氏、源氏、北条氏、足利氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏、と、ほぼ700年の長きに亘って、武士が政権を保持する武家社会が続きました。武力が、文化力に取って代わったのです。その間、女性は、男性より、はるかに低い社会的地位しか与えられませんでした。武家社会は、武家社会ならではの文化を創造しましたが、女性が文化の担い手になることは無かったのです。
「源氏物語」は、日本の文化史上、空前絶後の大傑作です。奇跡としか言いようの無い文芸作品です。それは、偏に、紫式部の、透徹した直視力と、壮大な構想力による。世界最初の長編小説と評価されることは、あながち、日本人の偏見ではない、と私は断言します。しかし、奇跡のように、「源氏物語」が生み出されたのは、唯に、紫式部の個人的資質、能力に加えて、女性の才能が必要とされ、評価された、あの時代であったればこそ、生み出されたのでしょう。
私の、貧弱極まりない頭脳では、目下の、日本の、どうしようもなく絶望的な状況の突破口は見つけ難いのですが、私は、まさに、紫式部が、「源氏物語」を書き得た状況、すなわち、女性の能力を必要とし、評価する状況を、今、再び、創り出すことではないか、と考えます。女性力を、社会に全開することこそ、閉塞状況を打ち破る、唯一の道である、と確信します。一国の首相が、地方自治体の首長が、会社の社長が、組織のリーダーが、どんどん、女性であるような社会こそ、活力を生み出し続けられると、確信します。私が、「源氏物語」を読み始めて、得た確信です。
「源氏物語」は、日本の文化史上、空前絶後の大傑作です。奇跡としか言いようの無い文芸作品です。それは、偏に、紫式部の、透徹した直視力と、壮大な構想力による。世界最初の長編小説と評価されることは、あながち、日本人の偏見ではない、と私は断言します。しかし、奇跡のように、「源氏物語」が生み出されたのは、唯に、紫式部の個人的資質、能力に加えて、女性の才能が必要とされ、評価された、あの時代であったればこそ、生み出されたのでしょう。
私の、貧弱極まりない頭脳では、目下の、日本の、どうしようもなく絶望的な状況の突破口は見つけ難いのですが、私は、まさに、紫式部が、「源氏物語」を書き得た状況、すなわち、女性の能力を必要とし、評価する状況を、今、再び、創り出すことではないか、と考えます。女性力を、社会に全開することこそ、閉塞状況を打ち破る、唯一の道である、と確信します。一国の首相が、地方自治体の首長が、会社の社長が、組織のリーダーが、どんどん、女性であるような社会こそ、活力を生み出し続けられると、確信します。私が、「源氏物語」を読み始めて、得た確信です。
2012年1月29日 一所懸命
では、なぜ、平安時代後期になって、武士が台頭してきたのでしょう。大化の改新で、すべての国民に土地を供与した班田収受と呼ばれる公地公民制は、過重の税負担に耐えかねた国民が、耕作を放棄して浮浪化し、農業生産が縮小傾向に陥ったために、新田の開発を促すために、個人で開拓した新田は、私有を認めるようになり、とりわけ、関東の武士が、新田開発に熱心に取り組みました。しかし、私有地の所有権を確保するためには、武力をもってするしかなく、さらに、強大な武力を保持するために、共闘して徒党化するようになりました。その武士団の棟梁として担がれたのが、桓武天皇の子孫である平氏と、清和天皇の子孫である源氏でした。
平安時代、土地の所有権の保証は、有力な貴族、有力な寺社に私有地を寄進して荘園とし、貴族、寺社の権威で、所有権を保持しようとしたのですが、次第に、貴族、寺社の社会的権威が失墜し、所有権争いが起きた時、武力を持って解決せざるを得なくなったのです。武士は、より強大な権力を持つ武士の棟梁、平氏、源氏に、土地所有権の保証を求めるようになり、所有権を認められた土地は、所領として安堵されたのです。武士は、棟梁より安堵された土地を、命懸けで守りました。「一生懸命」という言葉は、本来、「一所懸命」で、武士が、棟梁より安堵された土地を、命懸けで守ることを意味していました。
平安時代、土地の所有権の保証は、有力な貴族、有力な寺社に私有地を寄進して荘園とし、貴族、寺社の権威で、所有権を保持しようとしたのですが、次第に、貴族、寺社の社会的権威が失墜し、所有権争いが起きた時、武力を持って解決せざるを得なくなったのです。武士は、より強大な権力を持つ武士の棟梁、平氏、源氏に、土地所有権の保証を求めるようになり、所有権を認められた土地は、所領として安堵されたのです。武士は、棟梁より安堵された土地を、命懸けで守りました。「一生懸命」という言葉は、本来、「一所懸命」で、武士が、棟梁より安堵された土地を、命懸けで守ることを意味していました。
2012年1月28日 文化
日本の古代国家で、一大勢力を築き上げた蘇我氏が、聖徳太子と共に、仏教の移入に熱心であったことは、仏教が、当時にあって、最先進の思想であると同時に、最先端の知識であること思い合わせると、蘇我氏の権威の根拠が、最先進の思想、最先端の知識を所有していたことにあったと理解できるでしょう。仏教は、哲学的思想であると同時に、医学的知識でもありました。哲学も、医学も、人間の生死に係わる行為であることにおいて、権威を持つのであり、権力もまた、生まれるのです。
蘇我氏を倒し、権力を掌握した中大兄皇子が、大化の改新を成し遂げたのは、遣隋使として小野妹子(おののいもこ)に伴なわれて中国に渡航した、高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(そうみん)、等が、日本に持ち帰った、中国の最先端の、政治上、制度上の知識を、採り入れたからです。彼等、留学生が、中国で学び、習った、人間の生存条件に最も緊要な、衣食住の知識、染織、農業、建築の技術が、国家の発展と繁栄に、大いに寄与、貢献したのです。
中国の文化を摂取し、理解し、活用することが、有史以来、日本の国是でした。聖徳太子が、「十七条の憲法」で、「篤く三法を敬え。三法とは仏と法と僧なり。」と仏教を尊び、「冠位十二階」で、「徳・仁・礼・信・義・智」と儒教を採りいれたことに始まって、仏教と儒教は、日本の思想的根幹を成してきました。中国文化の受容者が、知を以って制する文化国家を目指していたと言えるでしょう。日本の国を指導する権威は、文化の理解者の中に在り、光源氏もまた、文化の理解者として描かれているのです。
蘇我氏を倒し、権力を掌握した中大兄皇子が、大化の改新を成し遂げたのは、遣隋使として小野妹子(おののいもこ)に伴なわれて中国に渡航した、高向玄理(たかむこのくろまろ)、僧旻(そうみん)、等が、日本に持ち帰った、中国の最先端の、政治上、制度上の知識を、採り入れたからです。彼等、留学生が、中国で学び、習った、人間の生存条件に最も緊要な、衣食住の知識、染織、農業、建築の技術が、国家の発展と繁栄に、大いに寄与、貢献したのです。
中国の文化を摂取し、理解し、活用することが、有史以来、日本の国是でした。聖徳太子が、「十七条の憲法」で、「篤く三法を敬え。三法とは仏と法と僧なり。」と仏教を尊び、「冠位十二階」で、「徳・仁・礼・信・義・智」と儒教を採りいれたことに始まって、仏教と儒教は、日本の思想的根幹を成してきました。中国文化の受容者が、知を以って制する文化国家を目指していたと言えるでしょう。日本の国を指導する権威は、文化の理解者の中に在り、光源氏もまた、文化の理解者として描かれているのです。
2012年1月27日 聖
貴族寺社が保有する権威は、大雑把に言って、広義な意味で、その文化力に在りました。「聖(ひじり)」の語源が、「日知り(ひしり)」であると考えられているように、「日を知る」、すなわち、太陽の運行の知識を持っている人間が、「聖人」、聖なる人であると考えられていたのです。なぜなら、太陽の運行の知識、とは、一年を通じた、気候の循環の知識であり、気候の循環の知識が、農業生産に極めて重要であるからです。
話は飛躍しますが、日本は、第二次世界大戦に敗北し、戦後、連合国の占領下にあった一時期を除いて、歴史上、一度も、他国の支配下にあったことはありませんでした。有史以来、圧倒的な大国であり、強国であった中国に対しても、聖徳太子が隋の煬帝に送った書によっても明らかなように、また、元寇を挙国一致で撃退したように、中国の属国になることは一度もなく独立を全うしてきましたが、独立を全うした制度的根拠は、有史以来今日に到るまで、日本独自の元号を使い続けていることと、日本独自の暦を使い続けてきたことでした。
如何なる暦を用いるのかは、それ程に重要で、それは、聖なる行為であるからです。暦の制定が聖なる行為である理由は、暦が、農業生産に大きく影響するからで、農業生産の成否が、人間の生存条件を決定するからです。人間の生死に係わる行為こそ、最も尊いのです。
話は飛躍しますが、日本は、第二次世界大戦に敗北し、戦後、連合国の占領下にあった一時期を除いて、歴史上、一度も、他国の支配下にあったことはありませんでした。有史以来、圧倒的な大国であり、強国であった中国に対しても、聖徳太子が隋の煬帝に送った書によっても明らかなように、また、元寇を挙国一致で撃退したように、中国の属国になることは一度もなく独立を全うしてきましたが、独立を全うした制度的根拠は、有史以来今日に到るまで、日本独自の元号を使い続けていることと、日本独自の暦を使い続けてきたことでした。
如何なる暦を用いるのかは、それ程に重要で、それは、聖なる行為であるからです。暦の制定が聖なる行為である理由は、暦が、農業生産に大きく影響するからで、農業生産の成否が、人間の生存条件を決定するからです。人間の生死に係わる行為こそ、最も尊いのです。
2012年1月26日 土地所有
平安時代は、文字通り、平安な時代、平和で安定した時代でした。辺境で戦争が行われることはあっても、国内では、戦乱が絶えていました。死刑が行われていなかった時代なのです。最高権力の争奪が、極めて文化的に行われた。武力ではなく、文力で行われたのです。文化の力が、日本の歴史上、空前絶後に発揮された。とりわけ、女性の文化力が。だから、「源氏物語」が、「枕草子」が生み出されたのです。
私が、日本の歴史を通観した印象、感想は、時の権力とは、土地所有を保障する機関であり、土地所有の保障が、最大の機能ではないか。飛鳥時代、唐の律令制を範にして、大化の改新を成し遂げた中大兄皇子は、日本のすべての土地を国有化し、班田収受によって、すべての国民に平等に分配し、平等に徴税を課しました。しかし、納税負担に耐えかねた国民が、土地から逃散し、浮浪化し、余剰労働者となって、貴族、寺社の私有地の私有民となって、荘園が全国に拡大し、律令制は崩壊していきました。
私有地を所有する豪族は、その土地所有の保障を得るために、藤原氏を筆頭とする有力貴族、東大寺を筆頭とする有力寺社に、私有地を寄進し、有力貴族、有力寺社の荘園が拡大して行ったのですが、なぜ、貴族、寺社に私有地を寄進して、土地所有の保障を得ようとしたのでしょうか。それは、貴族、寺社が社会的権威を、すなわち、権力を持っていたからです。では、貴族、寺社の権威の根拠は何だったのでしょう。
私が、日本の歴史を通観した印象、感想は、時の権力とは、土地所有を保障する機関であり、土地所有の保障が、最大の機能ではないか。飛鳥時代、唐の律令制を範にして、大化の改新を成し遂げた中大兄皇子は、日本のすべての土地を国有化し、班田収受によって、すべての国民に平等に分配し、平等に徴税を課しました。しかし、納税負担に耐えかねた国民が、土地から逃散し、浮浪化し、余剰労働者となって、貴族、寺社の私有地の私有民となって、荘園が全国に拡大し、律令制は崩壊していきました。
私有地を所有する豪族は、その土地所有の保障を得るために、藤原氏を筆頭とする有力貴族、東大寺を筆頭とする有力寺社に、私有地を寄進し、有力貴族、有力寺社の荘園が拡大して行ったのですが、なぜ、貴族、寺社に私有地を寄進して、土地所有の保障を得ようとしたのでしょうか。それは、貴族、寺社が社会的権威を、すなわち、権力を持っていたからです。では、貴族、寺社の権威の根拠は何だったのでしょう。
2012年1月25日 才色兼備
平氏が台頭し、平清盛が政権を奪取するまで、平安時代は貴族社会で、制度上、天皇が最高権力者でした。天皇が最高権力者である社会では、天皇の母は、最高権力者を生む、重要な立場になります。天皇の母になる女性の地位もまた、自ずと高くなります。それは、また、天皇の母に当たる女性の両親の地位が高くなることでもあります。藤原氏が、奈良時代から平安時代に亘って、摂政、関白、という最高実力者を輩出しつづけたのは、時の天皇の母を、藤原家から送り出し続けたからです。
奈良時代、平安時代と続く貴族社会にあっては、権力を奪取し、保持するためには、時の天皇の寵愛を得る女性を、宮中に送り出し、次代の天皇の外戚を確保することが必要でした。藤原氏を筆頭とする貴族は、いかに、天皇の寵愛を得る女性を宮中に送り出すかに、全精力を傾注しました。天皇の寵愛を得るためには、魅力ある女性を育てあげなければならなかったのです。美貌に優れ、教養に溢れ、品性の豊かな女性を。
そのために、貴族は、こぞって、自家の女子に、才色兼備の教育を施し、そのための教育係として、当代の才女を幅広く採用したのです。紫式部も、清少納言も、まさに、そういう女性でした。彼女達の才能が、権力を奪取し、保持するために、最重要だったのです。だから、そういう女性を筆頭として、女性の社会的地位、評価も、自ずと高かったのです。
奈良時代、平安時代と続く貴族社会にあっては、権力を奪取し、保持するためには、時の天皇の寵愛を得る女性を、宮中に送り出し、次代の天皇の外戚を確保することが必要でした。藤原氏を筆頭とする貴族は、いかに、天皇の寵愛を得る女性を宮中に送り出すかに、全精力を傾注しました。天皇の寵愛を得るためには、魅力ある女性を育てあげなければならなかったのです。美貌に優れ、教養に溢れ、品性の豊かな女性を。
そのために、貴族は、こぞって、自家の女子に、才色兼備の教育を施し、そのための教育係として、当代の才女を幅広く採用したのです。紫式部も、清少納言も、まさに、そういう女性でした。彼女達の才能が、権力を奪取し、保持するために、最重要だったのです。だから、そういう女性を筆頭として、女性の社会的地位、評価も、自ずと高かったのです。
2012年1月24日 男尊女卑
江戸時代、江戸(現東京)は、世界屈指の大都市でした。しかし、驚く勿れ、私自身が知ってビックリだったのですが、当時、江戸では、女性は男性の半分しかいなかった、男性は女性の倍いた(そうです)。ということは、江戸に住む男性の半分は、結婚できなかった(そうです)。これって、男性の私からすると、ムゴイですね。江戸時代は、「士農工商」の武家社会で、武士が一番エラカッタし、女性より男性がエラカッタ。「男尊女卑」なのです。制度上、女性は極めて低い地位しか与えられていませんでした。確かに、建前はそうでしたが、農家や商家など、庶民の家庭では、共働き、共稼ぎですから、必ずしも、「男尊女卑」ではない。まして、江戸では、女性は男性の半分しかいなかったから、引く手数多の売り手市場で、当然、女性の立場は強かった(でしょう)。
しかし、江戸時代、社会制度上、女性は、圧倒的に低い地位を余儀なくされました。それは、遡ると、平氏が台頭し、平清盛が武家政権を樹立して以来、明治維新で、武家社会が崩壊するまで、ずっと、続きました。なぜ、女性の社会的地位が低かったのか。それは、時の権力が、武力によって奪取され、武力によって維持されたからです。平安時代の末期以降、徳川政権が樹立されるまで、日本国内は、全国的な戦乱が絶えませんでした。戦争の勝者が権力を握る。戦争に勝つことが、社会的地位を確保することになるから、戦場で戦う兵士の社会的地位が、自ずと高くなるのです。そして、戦場で戦う兵士は、ほとんど男性なのです。
なぜ、男性が兵士なのか。勿論、女性で、男性を凌ぐ戦闘能力を持つ女性もいるでしょう。しかし、女性は、妊娠、出産、育児が必須なのです。だから、戦場で戦う兵士にはなれないのです。常時戦場、の時代にあって、女性は、権力の中心から、遠く離れざるをえなかった。だから、社会的に、低い地位しか与えられなかったのです。
しかし、江戸時代、社会制度上、女性は、圧倒的に低い地位を余儀なくされました。それは、遡ると、平氏が台頭し、平清盛が武家政権を樹立して以来、明治維新で、武家社会が崩壊するまで、ずっと、続きました。なぜ、女性の社会的地位が低かったのか。それは、時の権力が、武力によって奪取され、武力によって維持されたからです。平安時代の末期以降、徳川政権が樹立されるまで、日本国内は、全国的な戦乱が絶えませんでした。戦争の勝者が権力を握る。戦争に勝つことが、社会的地位を確保することになるから、戦場で戦う兵士の社会的地位が、自ずと高くなるのです。そして、戦場で戦う兵士は、ほとんど男性なのです。
なぜ、男性が兵士なのか。勿論、女性で、男性を凌ぐ戦闘能力を持つ女性もいるでしょう。しかし、女性は、妊娠、出産、育児が必須なのです。だから、戦場で戦う兵士にはなれないのです。常時戦場、の時代にあって、女性は、権力の中心から、遠く離れざるをえなかった。だから、社会的に、低い地位しか与えられなかったのです。
2012年1月23日 才女
私は、大学生の時、「枕草子」を読み、清少納言の、繊細、先鋭な感性に驚嘆しましたが、紫式部は、清少納言の、男勝りの才気煥発を手厳しく批判したそうで、私の中では、紫式部は、落ち着いた、おしとやかな、何事につけても、万事控えめな女性、という先入観を持っていたのですが、「源氏物語」を読み始めて、的外れ、見当違いであることを知りました。
勿論、表立っては、紫式部は、落ち着いた、おしとやかな、何事につけても、万事控えめな女性、であったかもしれません。清少納言が、自身の才気煥発を、これ見よがしにひけらかしたのとは正反対に。しかし、表面上の淑女とは裏腹に、紫式部は、驚くほど、大胆、恐ろしいほど、不敵、であったように思えます。でなければ、「源氏物語」は、書けません。
そういう意味で、紫式部と清少納言は、好一対、好敵手だったのでしょう。では、なぜ、日本の歴史上、最高、最良の才女が、時を同じくして輩出したのか。それは、この時代が、日本の歴史上で、他に類を見ないほど、女性の才能が高く評価されたからです。では、なぜ、日本の歴史上、この時代、他に類を見ないほど、女性の才能が高く評価されたのでしょう。それは、女性の社会的地位が高かったからです。
勿論、表立っては、紫式部は、落ち着いた、おしとやかな、何事につけても、万事控えめな女性、であったかもしれません。清少納言が、自身の才気煥発を、これ見よがしにひけらかしたのとは正反対に。しかし、表面上の淑女とは裏腹に、紫式部は、驚くほど、大胆、恐ろしいほど、不敵、であったように思えます。でなければ、「源氏物語」は、書けません。
そういう意味で、紫式部と清少納言は、好一対、好敵手だったのでしょう。では、なぜ、日本の歴史上、最高、最良の才女が、時を同じくして輩出したのか。それは、この時代が、日本の歴史上で、他に類を見ないほど、女性の才能が高く評価されたからです。では、なぜ、日本の歴史上、この時代、他に類を見ないほど、女性の才能が高く評価されたのでしょう。それは、女性の社会的地位が高かったからです。
2012年1月22日 文章化
今回、「源氏物語」を原文で読み始めて、予想外であったことが幾つかありますが、何より先ず、兎にも角にも面白い、ということでした。自分でもビックリするぐらい、よく分る。今までのところ、読んで分らない、意味不明なところが、まるでありませんでした。どうして、そんなに、分るのだろう。それは、日本語で書かれているからです。勿論、今、私たちが、語っている、書いている日本語と、違うところがないわけではありません。しかし、全くの異言語ではない。むしろ、予想外に、今、私たちが何気なく使っている日本語と同じなのです。
面白いのは、同じ日本語でありながら、コトバの使われ方が微妙に違う。その違いが、面白いし、今、私たちが使っているコトバが、もともと、どうして、そのコトバになったのか、コトバの、生成の時、生成の場を知ることができるのです。コトバは、元来、極めて具体的、具象的だった。それが、時を経て、所を変えて、次第に、類型的、抽象的になっていった。コトバが、本来、持っていた、肉体性、直感性を失っていたったのです。
当時、日本の男性社会では、思い切り、肉体性、直感性の無い漢語、漢文が用いられていました。その文章は、思い切り、類型的、抽象的だった。当然、女性でも、男性に追随するような発想、表現もあったでしょう。しかし、紫式部は、その真似事で、満足できなかった、自足できなかった。自分の見たこと、聞いたこと、感じたこと、考えたことを大事にした。忠実に表現しようとした。そして、正確に文章化した。それが、「源氏物語」なのです。
面白いのは、同じ日本語でありながら、コトバの使われ方が微妙に違う。その違いが、面白いし、今、私たちが使っているコトバが、もともと、どうして、そのコトバになったのか、コトバの、生成の時、生成の場を知ることができるのです。コトバは、元来、極めて具体的、具象的だった。それが、時を経て、所を変えて、次第に、類型的、抽象的になっていった。コトバが、本来、持っていた、肉体性、直感性を失っていたったのです。
当時、日本の男性社会では、思い切り、肉体性、直感性の無い漢語、漢文が用いられていました。その文章は、思い切り、類型的、抽象的だった。当然、女性でも、男性に追随するような発想、表現もあったでしょう。しかし、紫式部は、その真似事で、満足できなかった、自足できなかった。自分の見たこと、聞いたこと、感じたこと、考えたことを大事にした。忠実に表現しようとした。そして、正確に文章化した。それが、「源氏物語」なのです。
2012年1月21日 活写
「源氏物語」のコトバが、生き生きとした実感を持って息づいているのは、コトバが、より始原に近いから、というのも一つの理由でしょうが、しかし、やはり、紫式部の、コトバへの感性の鋭さによるのでしょう。コトバの選び方、並べ方、使い方のこれ以上でも、これ以下でもあってはならない、適確さなのでしょう。その適確さが拠ってくる所以は、紫式部の、人間を、人間の織り成す綾を、認識し、把握し、表現しようとした、その文章力の成せる業でしょう。
当時、文章は、漢文で書くことが公式でした。しかし、漢文という外国語で書くことは、その漢語を含めて、日本人の実感からは程遠い作業です。唯、唐という、先進大帝国の威光を借りて、後進国であらざるをえなかった日本の、国家としての威容を、威厳を保とうとした。思い切り、背伸びをしたのです。
しかし、コトバをもって文を書く、という作業は、本来、切実な私的欲求なのです。紀貫之が、「男もすなる日記てふものを女もしてみんとてすなり」、と女に成りすまして、和文で、日本語で、「土佐日記」を書いたのは、男性は、漢文漢語で書く、という公式を破ってでも、紀貫之自身の本心を書き尽くさないでおれなかったからです。
紫式部は、堂々と、和文で、日本語で、「源氏物語」が書けた。和文で、日本語で、書くことの利点、コトバが本質的に有する役割を、最大限に活用した。そうして、ものの見事に、当時の人間模様を活写したのです。
当時、文章は、漢文で書くことが公式でした。しかし、漢文という外国語で書くことは、その漢語を含めて、日本人の実感からは程遠い作業です。唯、唐という、先進大帝国の威光を借りて、後進国であらざるをえなかった日本の、国家としての威容を、威厳を保とうとした。思い切り、背伸びをしたのです。
しかし、コトバをもって文を書く、という作業は、本来、切実な私的欲求なのです。紀貫之が、「男もすなる日記てふものを女もしてみんとてすなり」、と女に成りすまして、和文で、日本語で、「土佐日記」を書いたのは、男性は、漢文漢語で書く、という公式を破ってでも、紀貫之自身の本心を書き尽くさないでおれなかったからです。
紫式部は、堂々と、和文で、日本語で、「源氏物語」が書けた。和文で、日本語で、書くことの利点、コトバが本質的に有する役割を、最大限に活用した。そうして、ものの見事に、当時の人間模様を活写したのです。
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